RYO.のプロフィール

まいどー!筆者のRYO.です!

こんな僕のプロフィールを見て頂けて本当に光栄です!マジでありがとうございます!

 

※最初に言いますが、僕の人生を1ページにまとめておりますので、めっちゃ長い内容になっておりますw

 

自分がどんな人間なのか少しでも多くの情報を知って頂きたいので、僕のこれまでの人生を赤裸々に綴ろうと思います!

 

このブログを始めたキッカケは、ある日突然仕事を失った事から始まりましたw

 

じゃあ何でブログなんだよ?って思う方もいるかもしれませんが、仕事を失った僕は毎日時間が有り余っているので、毎日ダラダラしながら色々と現在(2018.11月現在)の状況を客観視するようになりました。

 

そして気付いた事があります。

 

今までの自分は受動的でまったくアウトプットしていなかった!!!

 

そして僕は何か新しい事にチャレンジする事が好きなので、YOUTUBEとブログをほぼ同時に始めることにしました!

 

要するに、やらなきゃ何も始まらないってことですね!

 

実は僕、最終学歴が中卒で一度も就職したことがありません!考え方によってはこれっておもろいんちゃうん?って事に気が付きましたw

 

高校を中退して一度も就職したことがないような人間でも、自分の得意な事や好きな事で生きていくぞ!ってゆうモチベーションをどんどんシェアしていこうとゆうのをコンセプトにしております!

 

僕の人生自体がコンテンツになり、僕が生きているだけで需要があるのなら、そこに向けてドンドン発信していこうとゆうことであります!

 

最終目標は、ジャンル→『僕』ですw

『やりたいからやる』『書きたいから書く』以上!!!w

それでは僕の生い立ちから現在に至るまでのプロセスを紹介致します!

 

大阪生まれのたこ焼きBOY

 

杉本良太(RYO.)♂

1988年 4月18日 大阪府寝屋川市生まれ 次男

 

4人家族の次男として中流家庭(多分)に生まれる。幼少期は口数も少なく、おとなしい子で、母親いわくほとんど手のかからなかった子だったらしい。

 

幼稚園の頃は、恥ずかしくて『おしっこしたい』と先生に言う勇気がなく、度々下半身がビチョ濡れになっていた。

 

その反面、臭い玉を鼻に詰めまくって取れなくなったり、タンスを登ろうとして失敗して下敷きになったり、服の毛玉を取る家電をひげ剃りに見立てて使用し、顎が血だらけになったりと、活発な一面もあった。

 

記憶が曖昧だが、自分が4歳くらいの時に突然母親が出ていき、僕と兄は父に引き取られることになった。

 

野球と出会い、家出した激動の小学生時代

※ショッキングな内容が含まれていますので、自己責任でお進み下さいw

 

小学生に入る頃、僕と兄と父と祖父と祖母の5人暮らしが始まった。

 

そして小学校1年生くらいの時に父の提案で少年野球チームに入ることになった。

 

野球と出会ってからは、もう野球以外の事が考えられなくなるくらい野球に明け暮れていた。

 

本当に楽しく、練習に行くのも試合をするのも大好きで、野球が好きすぎて毎晩自分のバットとグローブを一生懸命手入れし、布団の中で一緒に寝ていた。

 

この頃の将来の夢はもちろんプロ野球選手だ!

 

そして野球をしながら楽しい5人暮らしの生活は、小学4年生の時に突如として終わりを迎えることになった。

 

同じ野球チームにいたチームメイトのシングルマザーの母親と、父が急に再婚することになったのだ。

 

僕はそいつら(相手の連れ子、男3人兄弟)の事もそいつらの母親の事もあまり好きではなかったので、父から提案があったときは、僕の兄も同様、当然反対した。

 

しかし僕らの意見など聞き入れる様子もなく、再婚は現実になり、家まで購入し、家族七人(僕、兄、父、再婚相手の母親、連れ子三人)の生活が急に始まった。

 

当時反対していたのは、僕の祖父と祖母(父の両親)も同じだった。

 

その際僕は大阪市内から四條畷とゆう街に転校することになり、大阪市内で所属していた少年野球チームも離れざるを得なくなってしまった。

 

大好きだった野球ができなくなってしまったのだ。

 

そしてこの頃から父の様子が徐々に狂気へと変わっていく。

 

今まで優しくておもしろくて大好きだった父が、僕と兄を家庭内で差別するようになってきたのだ。

 

相手の連れ子(男三兄弟)と兄弟喧嘩があると、まず僕と兄が呼び出され、正座を強いられ、時には暴力までふるってくるようになった。

 

この頃から家庭内で何かあるたびに僕と兄だけ阻害され、おやつや夕食にまで差別が出るようになった。

 

僕は兄が大好きで、家族の中で唯一信用できる人は兄だけだったが、兄とは信頼関係があったので、なんとかこの状況でも健全な精神状態を保てていた。

 

そして事件が起きた…

 

唯一信頼していた兄が耐えきれず、僕を残してどこかへ消えてしまったのだ。(この頃確か兄は中学一年生で僕は小学五年生)

携帯電話も持っているはずもなく、兄がどこへ行ったのか、知るすべもなかった。

 

そしてそれからの生活はあまり思い返したくないほど地獄のようだった。

 

あまりに辛く、それからの記憶は僕もあまり思い出せない。

 

何ヶ月経ったかは分からないが、ある日突然自宅に兄から電話がかかってきた。

 

たまたま電話に出たのが僕だったから兄と久しぶりに通話することができたのだが、あとあと話しを聞くと兄は何度も家に電話をかけていたらしい。

 

 

僕以外の家族が電話に出ると、僕と兄が話す事を嫌う他の家族が取り次がず、すぐに切ってしまっていたらしい。

 

兄はこう言った。

 

『俺は今京都の親戚の家にいる。帰るつもりはない。お前も岡山のばあちゃんとじいちゃんの家に行け。』

 

そう言って、祖父と祖母が暮らす岡山の家の電話番号を教えてくれたのだ!

 

そして僕は決断した。

 

『よし、家出しよう。』

 

それから行動に移すまではすごく早かった。

 

※よく考えたら僕の人間性のルーツはここから始まっていたのかもしれないw

 

家出

 

大阪から岡山まで移動するにもお金が必要だと思った僕は、家出前日に親父の財布からこっそり2万円を抜き取り、自分のポケットに隠した。

 

家出計画決行当日、普通の平日だったので、僕はいつもどおり学校に行く準備をして、ランドセルを背負い、何食わぬ顔で『行ってきまーす』と家を飛び出した。

 

その瞬間全速力で走り出し、ランドセルを池にぶん投げ、駅に向かった。

 

そして人生初の1人での大冒険が始まった!!!

 

岡山までの行き方なんて知らなかったので、とりあえず駅員さんに聞きまくり、電車を何本も乗り継いで、岡山を目指した。

 

途中、降りなければ行けない駅で乗り過ごしてしまったり、乗り換えの線を間違えたり、色々あった。

 

電車の窓から見える景色をぼーっと眺めながら、僕は内心物凄くドキドキしていた。

 

でも不思議と不安と恐怖心はまったくなかった!

 

そしてなんとか自力で岡山に到着することができた!

これは僕の中で今でも大きな自信に繋がっている。

 

人間その気になれば何だってできるのだと!

 

事前に祖母に公衆電話から連絡をしていたので、駅まで僕を迎えに来てくれていた。

 

安心した瞬間、一気に緊張の糸が途切れ、駅から祖母の家に向かう途中のバスの中の記憶がない。

 

今思うと、よく大阪から岡山への移動の道中に、誰も僕を保護しなかったなと思う。

 

もし駅員さんの誰かが僕を保護し、警察に連絡されていたら、僕は補導され、家に連絡がいき、僕の家出計画は失敗に終わっていただろう。

 

そしてここから僕と祖父と祖母の3人での田舎暮らしが始まった。

 

岡山に到着した翌日の夜、父から電話がかかってきた。

 

祖母が電話を取り、『お父さんや、喋るか?』と言ってきたのに対し、僕はクビを横にふった。

 

これが小学五年生の時だが、それから現在(2018.11月)に至るまで父とは一度も会っていない。

 

転校の手続きなどをお願いして、岡山の小学校に通うことになった。

 

おかげさまで仲の良い友だちもでき、岡山での小学校生活はまぁまぁ楽しかった。

 

そして僕の小学校生活は岡山で卒業を迎えた。

 

幼少期に出ていった母が突然現れた転機の中学生時代

 

僕はそのまま近所の中学校に入学することになった。

 

当時岡山の中学校は絵に書いたようなヤンキーばかりで、僕は完全に萎縮していたw

 

この時僕は念願のエレキギターを祖母に買ってもらい、野球を辞めた時の鬱憤を晴らすかのように毎日ギターを触るようになっていた。

 

中学校一年生はギターに完全に夢中になり、一年があっとゆう間に過ぎた。

 

そして中学二年生に上がる頃だっただろうか、何故僕が岡山に住んでいる事を知っていたのかも分からなかったが、突然母が僕の暮らしていた家にやってきた。

 

4歳の時から一度も会っていなかったので、実に9年ぶりくらいに母と再会した僕は気が動転して、母の目を見る事もできなかった。

 

母は言った『良太を引き取りたいからお母さんとこれから一緒に暮らさないか?』と。

 

その時母は再婚(現在の義理の父)し、子供(半分弟)が1人いるとのこと。

 

割と最近知ったのだが、あの時母が出ていった理由は、親父のせいだった。僕と兄を捨てたわけではないと。

 

いつか迎えに来て引き取る準備を今まで毎日コツコツ構築していたのだと。

 

しかし、大人の事情(裁判などの結果)でなかなか僕に近寄ることができなかったみたいだ。

 

僕の決断に迷いはなかった。

 

母とこれから生活したいと!

 

そして僕はその当時母が暮らしていた家、大阪府寝屋川市に引っ越すことになった。

 

僕は中学二年生から大阪の中学校に転校することになったのだ!

 

それと同時に僕は親権の問題により、名字が変わった。

 

今までの人生の反動なのか、僕は突然グレたw

 

髪の毛を金髪にし、学校で問題ばかり起こし、警察のお世話になることもしばしば。

 

しかし僕は親への反抗期はまったくなかった。

 

見た目は完全に不良だったが、母と義理の父と弟は大好きだったので、家にいる時は家族でワイワイしていたし、旅行にもたくさん連れて行ってくれた。

 

この時から僕は自分のやりたいように行動するとゆう事を覚えていった。

 

ありがたいことに、両親も『自分のやりたいことをやれ』と、よく言ってくれていた。

 

後の人生を狂わすことになるバンド活動を開始

 

僕がギターをやっていると知った周りの友達が、『俺もやりたい教えて教えて』と、楽器をやり出すやつが急に増えた!(みんな大体ヤンキーw)

 

僕はすごく嬉しく、ノリノリだった!

 

そして一緒に遊びながら楽器を徐々に覚えていき、その時の友達とバンドを組もうとゆうことになった!

 

幸い僕の地元、寝屋川市にはライブハウスもスタジオも楽器屋さんもあったので、練習はよくスタジオを借りて行っていた。

 

当時僕らの中で、HI-STANDARADを筆頭に、空前のメロコア(メロディック・ハードコア )ブームだった。

 

HI-STANDARADが僕の人生を狂わしたと言っても過言ではないw

 

もちろんこの頃もハイスタのコピーバンドをしていた。

 

練習をしてある程度上達すると、今度は誰かに見てほしくなり、学校の友達を20人ぐらい招いて、スタジオでライブのマネごとみたいなこともしていた。

 

そしてある日、スタジオの練習を終えて店の前でダラダラとしていた時、明らかにバンドマンです!みたいな三人組の兄ちゃんたちが声をかけてきた。

 

バンドマン『君たちバンドやってんの?今日ライブあるんやけど、見に来る?』

 

僕ら『行きたいです!』

 

即答だった!そして学校帰りに練習をしていた僕たちは学ランのままライブハウスに向かう事になった。

 

HI-STANDARDのDVDなどは擦り切れるほど毎日見ていたが、実際にライブハウスに行ったことはまだ経験がなかった。

 

そして、ライブハウスの扉を開けた瞬間、体が震えた。

 

ステージにセッティングされたドラムなどの機材、照明、大音量で流れる音楽、子供みたいに騒ぐ大人たち、僕は本当に興奮して、その時の光景が今でもハッキリ脳裏に焼き付いている。

 

こんな世界の景色を見たことがなかった中学二年生の僕らにはものすごい刺激だった!

 

相当興奮して楽しかったのか、この日のライブの内容や、何バンドくらい出ていたのかはまったく記憶がないw

 

夢を見ていたような気分だった。

 

僕は帰りに決心した!

 

俺も絶対こうなる!!!!!

 

それ以来僕のバンドに対するモチベーションが下がることは一切なかった。と、同時にギターの練習量も倍くらいに増やしていった!

 

週末になるとバンド仲間とライブハウスにライブを見に出かけた。

 

ほぼ毎週ライブハウスで色んなバンドを見ていた。

 

そして当時僕たちは制服も着替えないままライブハウスに行ってたので、目立っていたのか、色んな人に声をかけられた。

 

『中学生?』

 

『今日はどのバンドを見に来たの?』

 

きっと目立ってしまっていたのだろうw

 

こんな事を続けているうちに、仲良くしてくれるバンドマンも増えてきた!

 

そしてある日仲良くなったバンドマンが、僕にこう言ってきた、

 

『今度決まってたライブがメンバーの仕事の関係でどうしても出られなくなってしまった、もしよかったら君たちが変わりに出てくれない?』

 

僕に迷いはなく、1つ返事で

 

『出てみたいです』

 

と答えた。

 

そして中学校二年生バンド歴一年未満の僕らの人生初のライブハウスでのライブが決定したのだ!!!

 

確かハイスタの曲を6曲ほど演奏したと思う。

 

緊張して頭が真っ白だったし、上手く演奏出来たかどうかは分からない。

 

しかし、僕らみたいなクソガキのライブを真剣に見てくれる人がいて、僕らだけに照明が当たっていて、少しホールより高いステージに立ってギターを弾いている瞬間は今までに感じた事がなかったくらい気持ちがよかった!

 

こんな貴重な経験をさせて頂けて本当に感謝したし、勇気を持って行動する事は本当に大事な事なんだと思った。

 

自分が行動しなければ、お誘いもなかっただろうし、あの日あの時のステージにも立てていなかっただろう。

 

こんなことばかりをして過ごし、中学生活も卒業を迎えた。

 

小学校の卒業の時はあまり思わなかったが、中学生活は本当に楽しく、卒業するがちょっぴり寂しかった。

 

まったく楽しくなかった高校生活(一年間)

 

そのままバンドばっかりやっていた僕は、高校に行く意味が分からなかったが、親に言われるがまま、近所のアホ高校に入った。

 

ギターしか弾いていなかった僕は、もちろん受験勉強なんて一分もしなかったw

 

入試試験のテストの回答もほぼ白紙で、名前だけ書いたようなものだったが、受かってしまったw

 

そして高校に入ったのだが、クソつまんねぇーw

 

まず入学2週間くらいで色々あって10人くらい僕も含めて一気に停学処分になったw

 

そして謹慎期間中に遊びまくってたのがバレて更に謹慎期間が増えたw

 

この時点から僕の中でもう高校は辞めたいなーと思っていた。

 

そして高校二年に上がり、(何故ダブらずに二年生に上がれたのかは分からないがw)僕は修学旅行の直前で高校を中退した。

 

バイクや、他の興味のあることに目覚め始めた中学校時代のバンド仲間のモチベーションがこの頃は下がっていたので、この時のバンドは自然消滅した。

 

本格的なバンドへの加入

 

それから僕は高校一年生の時から尊敬して追っかけをしていたバンドに誘われて、急に当時大学生だった大人のバンドに加入することになった!

 

この頃ボクはびっくりドンキーでバイトをしながら、稼いだお金を全てバンド活動費用にあてていた。

 

お金なんかまったくなかったが、この時のバンド生活が物凄く楽しく、毎日が早く感じるくらい自分の中では充実していた。

 

バンドで機材車を持っていたので、自分たちの機材を自分たちで積み込み、日本全国ライブをしにツアーに出かけた!

 

もう夢が叶ったと思った!!!

 

僕が中学校二年生の時に憧れていた生活が実現したのだ!

 

当時はみんな貧乏だったので、高速に乗るお金もなく、東京まで下道で行ったり、車中泊してお金を節約していた。(当時マツダのボンゴフレンディーでメンバー四人で機材も積んでいたので、車中泊はなかなかのものでしたw)

 

それでも僕らはワイワイ楽しくライブをして全国を回った!

 

そしてある日、横須賀でライブを終えたあと、1人の男性が話しかけてきた。

 

『もしよければ、うちでCDをリリースしませんか?』

 

なんとその人は僕たちがめっちゃ好きだったアーティストが多数在籍する、東京に事務所を構えるインディーズレーベルの社長だった!!!

 

そして話がトントン拍子に進み、ついに全国流通のオリジナルCDをリリースすることができた。

 

僕は18歳で、14歳の時に思い描いていた夢を叶えることができたのだ!

 

そしてそこからライブの頻度も加速し、多い時では月に10本近くステージに立っていた。(お金が稼げるレベルには到底達していないが)

 

運良く、1000人を動員するような大規模なイベントにも出演することができた。

 

しかし人間とゆうのは無い物ねだりを繰り返す強欲な生き物でして、全てがそううまくはいかなかった。

 

今思うとCDをリリースした直後あたりから、メンバー間で少しずつズレが生じていたのだと思う。

 

僕が20歳の時、この当時のバンドメンバーはバラバラになることになってしまった。

 

そして僕は2年間ほどバンドから離れた人生を送った。(正確にはこの頃、友達同士でバンドを組み、作曲活動をしていたが、メンバー間のトラブルなどでライブをするまでには至らなかった。)

 

第二のバンド人生のスタート

 

全てがうまくいかなくなってどうしようもなくなっていた頃、国内で数少ない尊敬できる大先輩バンドのボーカルの方から僕の携帯にいきなり電話がかかってきた。

 

番号を交換したこともなかったのでいきなりの電話にびっくりして物凄く萎縮したが、あとあと聞いたら、共通の知り合いがいて、その方が取り次いでくれたらしい。

 

そして、電話でこう言われた、

 

『今うちギター募集してるんやけど、もしよかったら一回スタジオ入らへん?』

 

一瞬何が起きたのか分からなかった。

 

当時僕はその誘ってくれたバンドが国内で最強だと思うくらい尊敬していた。

 

僕みたいな中途半端なバンドマンが簡単に入れるような次元のバンドではなかったので、最初は丁重にお断りした。

 

それでもラブコールを送り続けてくれたので、後日試しに曲を覚えてギターを担いでスタジオに行ってみることにした。

 

そしてそれから何度かスタジオで曲を合わせたりしているうちに、僕の決意も固まり、正式にメンバーとして迎え入れられることになったのだ。

 

まさか本当に自分がメンバーとして入れるなんて、としばらくはパニックになっていた。

 

そしてそのバンドは、今まで僕がやってきたバンド活動とは全然違うネクストレベルのバンドだった。

 

週に何度もスタジオに入り、同じフレーズを何度も何度も練習し、【バンドサウンド】を徹底的に磨き上げていった。

 

一切妥協がないバンドスタイルに僕は毎日焦りを感じていた。

 

しかしそのおかげで僕は一ミュージシャンとして向上心が爆発的にぶちあがった!

 

そしてライブも定期的に重ねていき、ある程度板についてきた頃、オーストラリアへツアーに出る事になった!

 

今まで海外へ行った事がなかった僕は物凄く興奮した!

 

人生初の海外がバンドのツアー

 

僕が加入する前からバンドと親交のあったオーストラリア人のオーガナイザーが約一ヶ月にもおよぶツアーを企画してくれたのだ!

 

そして僕らはオーストラリアーにツアーに出ることになった!

 

現地のバンドと2バンドで、ハイエースに機材をぶち込み、計11人で現地での生活を共にした。

 

このツアーはオーストラリアのほぼ全土を制覇するとてつもなくハードなものだった。

 

キャンベラ、ニューキャッスル、シドニー、ブリスベン、パース、サンタテレサ、アリススプリングス、アデレード、ミルデュラ、ベンディゴ、メルボルン、ロックハンプトン、ケアンズ。

 

移動があまりにハードだったので、オフの日は移動にあてて、あまり観光などはできないくらいタイトなスケジュールだった。

 

この時の経験は本当に今の人生に大きな影響を与えている。

 

機材が消えたり、カンガルーとぶつかって機材車が廃車になったり、迷子になったり、色んなトラブルがあったけど、みんなで協力して1つの事を成し遂げた達成感と満足感はすごく自分にとってプラスになった。

 

色んな土地で色んな人種の人間とローカルな生活を共にし、自分の中の価値観がものすごく広がった。

 

本当にこんな素晴らしい経験が出来たことを、当時のツアーに関わった全ての人に感謝してもしきれないし、誇りに思う。

 

そして夢のようなオーストラリアツアーは無事に終わりを迎えた。

 

アメリカでの初の海外レコーディング

 

帰国してから日本での活動を順調にこなしていき、次はアメリカでのレコーディングの話をいただけることになった。

 

そして僕らはバンドの可能性を広げる為に、プチツアーとレコーディングを兼ねてアメリカに行くことになった。

 

意思の疎通は少し難しかったが、アメリカでのレコーディングはとてもリラックスしてできた。

 

当時エンジニアを担当してくれた奴の自宅にスタジオがあり、雰囲気的にもゆるい感じだった!

 

自宅にプールもあって、録音が終わったあとはみんなでプールパーティー!みたいな感じだったw

 

そしてレコーディングが無事終わったあと、3,4本アメリカでのライブを決行した!

 

今回のアメリカでのツアーは割と全てが順調にいきノンストレスですごく楽しめた!

 

海外でのライブは、オーディエンスのリアクションがわかりやすいので演奏していても楽しいし勉強になる。

 

いいライブをした時はTシャツもレコードもたくさん買ってくれるし、だめだった時はあまり物も売れない。

 

僕は海外ツアーに出て、バンドのギタリストしての思考が大きく変わった。

 

国内でしかライブをしたことが無い時は、うまく演奏することばかりに気を取られていた気がするが、ライブで本当に大事な事は、ミスしたとかしてないとかそんな事ではない。

 

自分たちがバンドとしてどのようなメッセージを伝えたいのか、このステージに立って何を表現したいのかを明確にすることが大事なのだと思った。

 

外に出れば出るほど考え方も変わり、どんどん成長できる気がした。

 

 

そして僕らは活動拠点の日本に帰国した。

 

バンド人生の終わり

 

国内での活動を再開したバンドは、相変わらずバリバリライブをこなしていた。

 

このあたりから僕はバンドにストレスを感じるようになっていた。

 

一度こう思うと、もう辞めるとゆう選択肢しか思い浮かばなくなってくる。

 

このバンドで得られる経験がものすごく自分にとって大きかった為、辞めるか辞めないか二ヶ月くらいずっと思い悩んでいた。

 

今考えると、そんな気持ちでステージ立っていた自分が情けないのと、当時のメンバーに申し訳ないと思う。

 

そして僕は当時の心境をメンバーに伝え、4年弱続けたバンド活動に終わりを告げた。

 

大阪から北海道への移住

 

バンドを辞めたとき僕は26歳だった。

 

この時はもう大阪を離れて田舎で暮らしたいと思い、派遣会社を通じて北海道に行くことにした。

 

移住したいと決めてから約二週間後にはもう北海道にいたw

 

そして僕は山奥の温泉街のホテルで調理の仕事を始める事にした。

 

都会で忙しく生活していた僕にとって、北海道はものすごくノビノビしていて居心地がよかった。

 

北海道に来た当日の夜は、周りが静かすぎて耳鳴りがひどくてまったく眠れなかった。

 

国道沿いに住んでいた僕にとっては、物音が聞こえない事が不安だったのだw

 

誰も僕の事を知っている人もいないし、やったこともない仕事をいきなり始め、土地勘もまったくない場所での生活は僕にとって全てが新しく、刺激的だった!

 

田舎には住みたかったが、別に調理の仕事をしたかったわけではないので、最初はちょっと嫌だったが、やっているうちにドンドン楽しくなっていった。

 

大阪にいた時はイライラしがちだった自分がどんどん心に余裕が持てるようになっていく気がした。

 

まさかの結婚

 

僕は最初北海道に来るとき、派遣の契約で、二ヶ月で大阪に帰る予定だったが、タイミングよく調理の先輩が辞めたり、色々あってどんどん契約の満期が伸びていった。

 

もう少し北海道に住んでいたいなと思っていたし、仕事も楽しかったので、よく考えたら大阪に帰る理由もなかったし大阪に帰ってからやりたいこともなかった。

 

そして働き始めて3ヶ月くらい経ったある日、今の嫁が調理場に正社員として入ってきた。

 

そこで気が合った僕らの距離が縮まって行くのに時間はあまりかからなかった。

 

二年ぐらい交際し、勢いで結婚することになったw

 

その時僕は自分の人生に結婚するとゆう計画はまったくなかったw

 

結婚はタイミングだ!なんて言葉を何度か聞いた事があったが、本当にそう思う!

 

強いてもう一つ言うなら勢いも大事だw

 

僕はいきなり北海道に来て、いきなり結婚したw

 

人生とゆうのは本当におもしろい。

 

そして現在(2018,12月)と、未来への挑戦。

 

結婚してから嫁と同じ職場で働いていたのですが、急に辞めさせられることになり、夫婦無職になったw

 

僕はもうこれを機に誰かに雇われるのを辞めようと嫁と誓った。

 

やりたくない事を極力避け、自分たちのやりたいことで生活の基盤を作っていこうと決めた!

 

そして今はそれに向けてコツコツ準備を始めている。

 

まだ何も収入源は確保できていないが、とりあえず動こうということで、徐々に断捨離も始めている。

 

とりあえず身軽にし、フットワークを軽くすることから始めようと思っている。

 

あとは何か問題が起きた時に1つずつ解決していこうという楽観的な考えだw

 

今はまだ日常生活は何も変わってはいないが、僕らは何ヶ月後かに海外を転々として遊びながら生活をしているだろう。

 

未来を逆算すればおのずと行動に現れるものだ。

 

これはバンドをしていた自分が実際に体験し、確信している事だ。

 

まぁ要するに僕は一生遊んでフラフラ生きていきたいとゆうことですw

 

とゆうわけで最後まで読んでくれた方お疲れ様でした!

 

長くなってしまってすみません!

 

これからもコツコツ発信していこうと思っておりますので、どんどんシェアしていきましょう!

 

ありがとうございました!

 

By RYO.

 

 

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まいどー! 大阪生まれのハッピー野郎RYO.です! 高校を二年で中退後、一度も就職をせずに好きな事だけをやって生きている僕の新たなる挑戦として、開設したブログです! 自分と似たような境遇の人は勿論、まったく違う人生を歩んできた人とも共感を得ていただけたら僕はとても幸せです! 毎日ハッピーに生きる! ただそれだけ! ↓座右の銘↓ 【自分の与えるものが、自分の貰えるもの】 コツコツ頑張ってますので応援よろしくお願いします!